お問い合わせ ▷ログイン

宝塚混声合唱団

Takarazuka Konsei Gasshodan (Takarazuka Mixed Chorus) since 1980


第32回音楽会 「クリスマス・オラトリオ」に寄せる想い   Essays

2020年7月25日(土)の第32回音楽会では、東リ いたみホールでJ.S.バッハの「クリスマス・オラトリオ」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員からのコンサートに向けた想いをご紹介いたします。

NEW
エッセイ2:「バッハとヘンデル」 広田 修
エッセイ1:「クリスマス・オラトリオ」雑記 福田 伸


「バッハとヘンデル」

 
テナー  広田 修

バッハとヘンデルはともに17世紀に誕生したバロック音楽の巨匠である。が、両者は同時代にドイツで生まれたことを除いては、すべてに対照的な宿命のライバルであった。

1685年3月21日、ヨハン・セバスティアン・バッハはドイツの町アイゼナハに誕生した。ヘンデルは同じ年の2月23日にハレで生まれている。音楽一家に生まれたバッハは生まれたときから音楽家になることが 運命づけられていた。バッハが10歳のとき、母と父が相次いで亡くなった。幼いバッハは14歳年上の異母兄クリストフに引き取られた。23歳のクリストフはオールドルフという町で教会オルガン奏者として働いて いたが、給料は安く生活は苦しかった。クリストフがバッハにクラヴィーアという鍵盤楽器の手ほどきをしたところ、バッハはみるみるうちに上達した。練習曲に飽き足らなくなったバッハは兄が秘蔵する当代一流の 作曲家たちの楽譜を見たくてたまらなくなった。懇願したが兄は時期尚早として許してくれなかった。意を決した少年バッハは夜中書棚から楽譜を取り出し、月明かりの下で6ヶ月かけてすべての写譜に成功 した。しかし、練習に取りかかる直前に兄に気づかれ、くだんの筆写譜はすべて取り上げられてしまった。これは「月下の写し」として伝わる有名なエピソードである。写譜に要した並々ならぬ苦労とこれを取り 上げられたときの大いなる落胆について、晩年のバッハは弟子や子供たちに何度も話している。少年バッハの口惜しさは心中察するにあまりあるものであったが、この経験が大作曲家バッハの原点になった。 複雑な音楽をわずかな明かりのもとで正確に筆写していくうちに、並外れた音楽に対するコンテキスト理解が涵養されたのである。

同じ頃、ヘンデルはツァハウという先生に教わり、彼が所有する膨大な楽譜を自由に見て練習することが許されていた。だが、ヘンデルはヘンデルで別の悩みがあった。音楽家の道を志望していたが、父ゲオルグは これを決して許さなかったのだ。将来は法律家になることが義務づけられていたが1697年、12歳で父を失うことによってこのくびきから解放された。

居候の身であったバッハが14歳になるころ、オールドルフから北に300kmほどにあるリューネベルクという町の聖ミカエル教会付属学校で聖歌隊の歌手として給料をもらいながら学問ができるという幸運に恵まれた。 1700年3月、バッハはオールドルフからリューネベルクへと旅だった。 1702年、17歳のバッハは学校の教育をすべて終了して職探しをすることとなった。教会付属学校が最終学歴となった。今で言えば高卒である。当時の音楽家は職人であり学歴が必要とは考えられていなかった。 また、経済的にやむを得ないことでもあった。が、しかし、後にバッハは大学を出ていないことで苦しむことになる。18世紀初頭のヨーロッパにおいては啓蒙思想が流行し「音楽家も高い教養をもつ知識人であるべき だ」と考えられるようになってきたからである。例えば、ライプチヒの聖トーマス教会のカントル就職について、バッハは「学歴が低い」という理由でなかなか採用されなかった。採用された後も「音楽より学科を」という 時代風潮で、バッハの主張は却下されることが多く、待遇も本来カントルが受けるべきものよりも格下げされた。同じ頃、ヘンデルはハレ大学に在籍していたが、ハンブルグでオペラの作曲がやりたくなり中退、パトロンに 取り入ることで自らの音楽人生を切り開いていった。学歴が必要などとは考えたこともなかった。

1703年、18歳のバッハはアルンシュタットのオルガン奏者試験に合格。専任奏者の地位を得た。非常に高い地位と収入であった。同時に聖歌隊の指導も任されたが、この聖歌隊のレベルは低く、できの悪さに 我慢がならないこともしばしばであった。あるとき、3歳年上のファゴット奏者に「メスヤギのファゴット」と暴言を浴びせてしまった。これを恨んだ青年は中央広場でバッハを待ち伏せ、ステッキで襲いかかった。バッハも 剣を抜いて応戦。大騒ぎとなったが周囲の友人たちが割って入り、双方けがもなく無事に収まった。この事件は町の聖職会議に報告され、バッハが生徒をうまく教育していないということで叱責を受けた。が、バッハは これを受け入れず、聖歌隊に入れる前にもっと基礎ができるように教育されるべきだ、と反論。反省の色を見せなかった。乱闘騒ぎに続いてさらに破天荒な掟破りをやらかしてしまう。当時、女人禁制であった教会の オルガン席に後に結婚することとなるソプラノ歌手、マリア・バルバラを連れ込み、歌を歌わせたのである。まれに見る不祥事であった。バッハは当局に喚問され、またもやきついお叱りを受ける。それやこれやで次第に アルンシュタットの居心地は悪くなっていった。同じ頃、ヘンデルは兄貴分である音楽家マッテゾンと命をかけた決闘をしている。この時代のドイツ青年は誰も皆、血の気が多かったのかも知れない。

1707年、バッハはミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガン奏者に就任した。同年、亡くなった叔父の遺産を相続し経済的に余裕を得たバッハは10月17日、マリア・バルバラと結婚した。バッハの女性観 は「別れても好きな人」。奥様一筋、子宝に恵まれ幸せな家庭を築いた。が、子供が多いので生活はいつも火の車だった。ヘンデルは美男子で渚のシンドバットのごとく「別れたら次の人」。次々と主君の奥様に 取り入って立身出世を果たした。生涯独身、子供のために生活で苦労することはなかった。もし二人が女性論議を戦わせていたら、面白い議論が展開したことであろう。

1708年6月、バッハはミュールハウゼン市参事会に辞表を出し、ザクセン=ワイマール公ウィルヘルム・エルンストの宮廷オルガン奏者となった。より待遇のよい職場を求めての転職であった。バッハが常により良い 待遇を求めていたことは疑いない。が、転職に計画性は感じられない。一方、ヘンデルはこの時期イタリア貴族の屋敷に居候しているが、この頃からすでにオペラ作家を志向し、将来性や市場性を考えてロンドンで 身を立てることを計画していた。ヘンデルの処世術は戦略的であった。

ワイマールに移ってまもなく、長女カタリーナが生まれた。結局バッハはバルバラとの間に7人の子を授かるが、3人は早世し4人が残った。この中には後に「ハレのバッハ」と呼ばれるウィルヘルム・フリーデマンや「ベルリン のバッハ」と呼ばれるカルル・フィリップ・エマヌエルなど才能ある息子たちもいた。この時期バッハはオルガン奏者としての名声を確立した。

すべて順調であったワイマールの生活に暗雲が立ちこめたのは1716年であった。ウィルヘルム・エルンスト公との仲が険悪になった。ウィルヘルム公には共同統治者である甥のエルンスト・アウグストという人物がおり、 2人は仲が悪く反目していた。エルンスト・アウグストはイタリア風の音楽を愛し、バッハも彼の屋敷を訪ねてはイタリア風の音楽を聴いたり演奏したりしていた。イタリア風音楽を嫌うウィルヘルム公はバッハがエルンストの 屋敷で演奏することを禁止したが、バッハはこれに従おうとはしなかった。バッハという人は音楽に対して厳格で純粋であるため、主君の命令とか社会の規範をしばしば無視することがあった。辞職を求めるバッハに 怒ったウィルヘルム公は彼を1ヶ月間、牢に拘留してしまう。バッハは決して反体制ではなく、革命家でもなかったが、扱いにくい頑固者であることは確かだった。対照的にヘンデルは主君の目を盗んで、奥様と恋仲に なることはしばしばあったが、不興を買うようなヘマはやらかさなかった。

バッハの頑固さに根負けしたウィルヘルム公はついに彼を釈放した。1717年8月、バッハはケーテン公レオポルドに仕えることになった。32歳のバッハはオルガン演奏家としての地位を不動のものとし、数多くの作曲を こなした。多忙ではあったが幸せであった。が、突然、不幸が襲った。1720年7月、妻のバルバラが4人の小さな子供たちを残し他界してしまったのだ。悲しみの中、かねて依頼されていたブランデンブルグ協奏曲を 完成させ、1721年3月、これを辺境伯クリスティアン・ルートビヒに献呈した。器楽曲の傑作とされているこの曲は、当時、大きな話題にならなかった。

バルバラが亡くなって18ヶ月後、1721年12月、36歳のバッハは16歳年下のソプラノ歌手、アンナ・マグダレーナと再婚した。彼女は音楽的才能豊かでバッハ作品の多くを筆写、先妻との間にできた4人の子の母に なるばかりでなく、自身も13人の子をもうけた。バッハにとってかけがえのないパートナーとなった。 ケーテン公レオポルドが結婚したことにより、運命が暗転した。王妃は音楽嫌いで宮廷音楽家たちの待遇はしだいに悪くなった。バッハはライプチヒの聖トーマス教会付属音楽学校のカントルが亡くなったので、後任に 立候補し就職試験を受けた。学歴が低いという理由により3番目の補欠だったが、合格したふたりが辞退したため採用が決まった。1723年5月、アンナと子供たちを引き連れてライプチヒへと旅だった。38歳であった。

ライプチヒ時代のバッハは超多忙であった。毎週、教会のためにカンタータを作曲。年間作曲数は60曲にのぼった。聖歌隊の指導、低レベル音楽にたまるストレス。改善を申し入れても聞く耳を持たない聖職会議や 市参事会。カントルに本来与えられるべき報酬と権限が、大学を出ていないという理由により半分に削減される理不尽。諍いは果てしなかった。そうした中、傑作「ヨハネ受難曲」を作曲。1724年、聖ニコライ教会で 演奏された。この時もいざこざがあった。受難曲は復活祭の週に演奏されるが、ニコライ教会とトーマス教会で毎年交互に演奏されるのがライプチヒでのしきたりであった。バッハは、ヨハネ受難曲はチェンバロや合唱の 関係で、トーマス教会で演奏した方が良いと考え、独断でトーマス教会での演奏準備を進めた。驚いた聖職会議がこれを止めようとしたが、バッハは頑として譲らなかった。結局、バッハの主張が一部認められ、ニコライ 教会の合唱席を増設しチェンバロを改修することで、慣例通りにことが進んだ。が、バッハは今後2度とこのようなまねはしないように、ときつく釘を刺された。家庭生活においては、マリアは毎年出産したが、3人の子が 早世した。誕生の喜びより別離の悲しみが大きかった。

1729年4月、「マタイ受難曲」が聖トーマス教会で演奏され、聴く者に深い感動を与えた。が、こういった成功にもかかわらず、当局との諍いは激しさを増し、ライプチヒでのバッハの立場はますます悪いものになって いった。この年の夏、44歳のバッハは病気にかかって立ち上がれずにいた。このときヘンデルがライプチヒから30kmの故郷ハレに戻っていた。立ち上がれないバッハは人を使わせてヘンデルに立ち寄ってほしいと頼んだ が、ヘンデルも多忙で余裕がなかった。こうして2人の巨人は、ニアミスはあったが相まみえることはなかった。

ストレスがたまるライプチヒの生活にあって、ささやかであるが良いことが起きた。聖トーマス教会付属学校の老校長が死亡し、後任に親友のヨハン・マティアス・ゲスナーが着任した。彼は音楽の理解者で、音楽の 重要性を復権し、改善のため校舎の改修、拡張を実施した。このおかげで大家族のバッハの住居も、広く快適な住まいへと移ることができた。また、ゲスナーはバッハと市参事会や聖職会議との関係修復にも尽力 したが、うまく進まずしこりは残りつづけた。

1733年、ザクセン選帝侯のフリードリヒ・アウグスト一世が亡くなった。バッハは後継者となるアウグスト二世のために「ロ短調ミサ(原典版)」を作曲した。このときは「小ミサ」の形式で「キリエ」と「グローリア」の部分だけ であった。「ロ短調ミサ」全曲が完成するのは晩年の1747年である。「ロ短調ミサ」は宮廷音楽家の称号を得るために献呈され、ドレスデンで演奏されたが、期待もむなしく称号は与えられなかった。バッハ渾身の 作品は時代を先取りしすぎており、当時の人々には難しかった。この作品はコンサート会場での演奏こそふさわしく、教会の礼拝には不向きであった。

バッハの生涯は山のような仕事に追われ、たくさんの子供たちをかかえ、上司たちと絶え間なくいさかいを繰り返すという、非常に世俗的なものであった。雇い主たちからは必ずしも評価されず、満足な演奏機会を与えら れなかった曲も多い。しかし、彼の作る曲は世俗を超越しており、驚くべきことにどの曲を見ても手抜きの跡が全く見当たらない。ヘンデルの曲にはしばしば「以下同文」のような趣を見いだすことがある。この違いは おそらく、神のために作曲する、と、人のために作曲する、との姿勢の違いから発したものであろう。

1734年、「クリスマスオラトリオ」が初演された。当時のクリスマスというのは12月25日、26日、27日の3日間、および元日(割礼節)と1月6日(顕現節)、この期間に入る日曜日(1734年は1月2日)であり、礼拝と カンタータの演奏がなされていた。つまり6曲のカンタータが必要で1部から6部がこれに該当する。「クリスマスオラトリオ」は1733年に構想され、実際の作曲は1734年10月~12月の2ヶ月で仕上げた。これだけ長大な 曲を短期間で作り上げるとは恐るべき集中力といえるが、ほとんどの曲は転用(パロディ)である。この時代のパロディは珍しいことではなくヘンデルも多用している。バッハの場合は教会行事のたびに1回限りで使い捨てら れる曲が多数有り、クリスマスの教会行事のたびに必ず演奏される「クリスマスオラトリオ」にこうした埋もれた曲を残しておきたい気持ちも多分にあった。作品は、誕生、天使のお告げ、羊飼いの礼拝、命名、東方の三博士、 に関する新約聖書の記述に従って展開し、6祝日に分けて演奏されるにもかかわらず、内容的な統一が図られている。

この年、親友のゲスナーが聖トーマス校を去り、ヨハン・アウグスト・エルネスティという若き校長が着任した。彼の教育方針は学科重視で音楽は低く置かれた。2人はことあるごとに対立しおとなげない争いが続いた。1736年、 エルネスティはバッハが信頼していた副指揮者を解任し、新たな副指揮者を任命した。が、バッハはこの副指揮者を公衆の面前で追放してしまった。ライプチヒ市当局はこの件でエルネスティとバッハ双方を叱責している。そうこう するうちに念願であった宮廷音楽家の称号がザクセン選帝侯から与えられた。 宮廷音楽家の称号を得たことで2人の争いはうやむやなまま終息した。しかし、学校の秩序が損なわれ大きなダメージが残った。バッハ51歳であった。

1737年、52歳になる頃からバッハは次第に教会や市のための音楽は書かなくなり、以前に作った曲の手直しや、曲集をまとめることに力を注ぐようになった。当時のバッハは高給取りであり、本人はプロテスタントの精神を体現 した倹約家であった。が、悠々自適とはいかず借金取りに追われる生活が続いた。父の気質を受け継がぬ、放蕩息子たちの尻ぬぐいをしていたのだった。偉大な父をもつと、息子たちがねじまがる。特に三男のベルンハルトは 巨額の負債を残して行方をくらまし、心配したバッハが八方手を尽くしてようやく探し当てた矢先に、24歳の若さで熱病にかかり他界してしまう。1739年であった。悲しみと衝撃は大きかった。

浪費家の息子ばかりの中で、次男のカルル・フィリップ・エマヌエルは倹約家であった。彼はベルリンでフリードリヒ大王の宮廷楽師長に就任しており、バッハ自慢の息子だった。1747年、バッハはフリードリヒ大王の音楽会に 招かれた。その席でフルートの名手である大王から示された主題を即興でフーガにして演奏した。 後に編集して「音楽の捧げもの」として献呈した。晩年の傑作である。バッハの真骨頂は「音楽の捧げもの」にみられるように1つの主題を徹底的に突き詰めていく展開の妙にある。新しい楽想が次々にわき上がるモーツアルトとは 根本的に異質な音楽であった。

1750年3月、視力の衰えたバッハは目の手術を決意する。ジョンテイラーという高名なイギリス人の 眼科医がライプチヒに立ち寄っていた。3月と4月の2回にわたり手術が行われたが、失敗に終わった。 バッハは失明し、手術の後遺症のため7月28日、昇天した。65歳であった。ジョンテイラーは後年(1753年)ヘンデルの目の手術をしてこれも失敗、失明させている。ロンドンのヤブ医者が二人を結ぶ最後の縁となった。ヘンデル はバッハよりも少し長生きし、1759年74歳で昇天した。

バッハの音楽は死後、モーツアルトやベートーベンから高く評価されたが、その後忘れられた。19世紀にメンデスゾーンが「マタイ受難曲」、シューマンが「ヨハネ受難曲」を発掘再評価するまで、世の中の人が知ることはなかった。 ヘンデルは「メサイア」など、生前から評判が高く、その人気は現在まで続いている。バッハの音楽はルネサンス期から続くポリフォニーの伝統に根ざしていた。ポリフォニーとは多声音楽と訳され、フーガがその代表である。バッハの コラールは単純な旋律ながら妙に歌いにくい。主旋律が浮き立たず各声部が独立しているかのように動くからである。乱暴に言ってしまえば、ポリフォニーとは神中心の世界観である。万物が神中心に調和している様相を表現 したものである。古代ギリシアの哲学者ピタゴラスは宇宙の星座は人間の耳には聞き取れないハーモニーを奏でている、と考えていた。これを現実世界に体現するのが教会音楽の理想だった。

しかし、世は宗教改革を経て啓蒙思想、人間中心の考え方に変わりつつあった。つまり、人間が主役で万物は人間のために存在する脇役に押しやられた。音楽の流行も社会思想と無縁ではない。音楽の主役が ホモフォニー(主旋律に和声が付随するもの)に変わっていくのは時代の流れであった。ヘンデルはホモフォニーの先駆者であり、ハイドン、モーツアルトがこれに続いた。バッハは最後のポリフォニー作曲家である。バッハが 頑固に旧来の価値観にとどまったのに対し、機を見るに敏なヘンデルは上手に時代の波に乗った。バッハが忘れられるのは無理からぬことであった。

バッハとヘンデルは果たしてどちらが幸せだったのだろうか?ヘンデルは幼い頃から神童といわれ、良い先生に恵まれのびのびと音楽修行をした。青年時代に自分の職業はオペラ作家と見定め、戦略的に転職し、最後は オラトリオで成功して大きく財をなした。恋人や友人に恵まれ、死の直前までメサイアを指揮した。遺書をしたため望みとおりの日に昇天した。葬儀には三千人の人が訪れてその死を悼んだ。バッハは幼い頃から両親を 失い、肩身の狭い居候生活で厳しい修業時代を過ごした。就職してからは無理解な上司たちやできの悪い聖歌隊と果てしなく衝突を繰り返した。結婚して20人の子供をつくったが、多くは早世して別離の悲しみを 何回も味わった。成人した息子たちは放蕩者が多くいつも苦労した。頑健なバッハは目の手術をしなければもっと長生きできたはずで、65歳で死ぬのは不本意だったであろう。こうしてみるとバッハのほうが、苦労が多そう である。しかし、本当のことはわからない。コーヒーと煙草とワインを愛したバッハ。忙しい中で一服するコーヒーと煙草、あるいは夕食のワイングラスを傾けるとき、バッハの至福はヘンデルよりもずっと大きなものだったかも 知れない。現在、ヘンデルはウェストミンスター寺院、バッハは聖トーマス教会で静かに眠っている。天上の二人はグラスを片手に音楽談義、女性談義に花を咲かせていることであろう。

    おわり。