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宝塚混声合唱団

Takarazuka Konsei Gasshodan (Takarazuka Mixed Chorus) since 1980


第31回音楽会に向けて 「メサイア物語」  

2019年7月27日(土)の第31回音楽会では、東リ いたみホールでヘンデルの「メサイア」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員による「メサイア物語」をご紹介いたします。

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「メサイア物語」広田 修


メサイア物語

 
テナー  広田 修

メサイアは「予言・降誕」「受難・贖罪」「復活・永生」の3部構成になっている。

第1部:予言・降誕

話は今から2600年ほど昔のバビロンの捕囚時代にさかのぼる。ユダヤ人はそれまでパレスチナからエジプトに逃れ、そこで迫害されて、モーゼによって約束の地「カナン」へ侵入し、現地の人々ともめたりしていたが、 紀元前586年にバビロニアによりユダ王国が滅ぼされてしまう。国が消滅しただけではなく土地までも奪われ、人々はバビロンに連れ去られ虜囚となってしまった。しかし、ユダヤ人は祖先アブラハムが神と契約を 交わした民族であったから、国が亡び、土地を奪われても民族のアイデンティティーまで失う訳にはいかなかった。

序曲。フランス様式で書かれ、単独の器楽曲としてもバロック最高峰の傑作。Symphonyと記されているがもちろん交響曲という意味ではなく、管弦楽曲というほどの意味である。余談ながら交響曲が 器楽曲の王座を獲得するのはヘンデルから60年ほど後のべートーベンの時代である。それまでの器楽曲の王様は協奏曲であった。主役となる楽器があり、オーケストラは脇役で、ソリストの技巧を楽しむのが 一般的であった。ベートーベンが交響曲によって思想を語ることができることを証明し、その後の作曲家たちが哲学的な作品や宗教的な作品や文学的な作品を発表した。そのためクラシック音楽は やや堅苦しくもなった。ちなみに18世紀から19世紀にかけての欧州政治は、主権が王様・貴族といった少数個人から市民・大衆といった複数多数へと交代していったが、音楽の世界においても一人が 主役の協奏曲からみんなが主役の交響曲に変わっていったことは興味深い。

第2曲。アリオーソ(テノール)。預言者イザヤは「バビロンからの解放」「帰還の約束」を告げる。アリオーソとはアリア風というほどの意味で、旋律的なレシタティヴォともいえる。

第3曲。アリア(テノール)。谷は高く、山は低く、曲がった道はまっすぐに主のために整えられる。

第4曲。合唱「かくして主(エホバ)の栄光は現れ出でん」直前のテノールによるアリオーソとアリアの内容を理解し、歌詞に込められた希望や喜びを的確に表現したい。
紀元前538年。ペルシア帝国がバビロニアを滅ぼし捕囚されていたユダヤ人はエルサレムへの帰還が許され、神殿の再興が認められた。ペルシア王キュロスはユダヤ人にとっては恩人である。ペルシアは 現在のイランだが、宗教はゾロアスター教であり、イスラム教シーア派ではなかった。
ここから話は一気に500年ほど飛ぶ。場所はイエス誕生前のイスラエルである。ユダヤ国はエルサレムを中心とした範囲にあったが、ローマ支配下で独立を失い、ユダヤ人は神殿から遠ざけられ各地に 離散して暮らしていた。厳しい境遇にあった当時、人々はメシアを待望していた。メシアとはヘブライ語で「油を注がれた者」すなわち神によって選ばれた支配者、解放者である。

第5曲。レシタティヴォ・アコンパニャート(バス)。アコンパニャートとは伴奏付きを意味し、レシタティヴォ・セッコ(通奏低音のみ)と区別される。万軍の主の来臨を宣言する。

第6曲。アリア(アルト)。万軍の主の来臨の日はまた最後の審判の日でもある。その日に誰が身を支え得るか。審判の厳しさ、人間の弱さ、はかなさが歌われる。レクイエムの怒りの日を想起させる。

第7曲。合唱。主はレビの子をきよめられる。レビとはレビ族のことで、祭司となる一族である。「Purify」は浄化するという意味の中に悪しき者を排除・抹殺する、という厳しい含みがある。合唱のメリスマは 主の厳しさ、恐ろしさを表現するものであって、優美に歌うものではない。

第8曲。アリア(アルト)と合唱。受胎の知らせ(良き訪れ)を「Zion」に伝えよ。乙女から生まれる御子の名は「インマヌエル」=神は我々とともにおられる=である。「Zion」はエルサレムの地という意味。シオンと 表記されることもあるが、合唱では「ザイオン」と発音する。

第9曲。レシタティヴォ・アコンパニャート(バス)。地を覆う闇は主の栄光によってかき消される。

第10曲。アリア(バス)。そして闇を歩く人々は偉大なる光を見る。

第11曲。合唱。ひとりの嬰児が私たちのために生まれた。この方はこの世を支配し、知恵に満ち、全能で、平和を与える方です。「Born」=誕生の喜びがメリスマによって華やかに表現される。合唱の 見せ所であり、ソプラノとこれに続くバスのメリスマはとても重要である。

第12曲。Pifa 田園交響曲。ベートーベンに先立つこと65年。ヘンデルによって田園交響曲はすでに作曲されていた。羊飼いたちの平和な情景。この音楽によって舞台は旧約聖書の世界から 新約聖書の世界へと転換する。

第13曲、第14曲。レシタティヴォ・アコンパニャート(ソプラノ)。夜通し羊を見張っていた牧人たちの前に、光とともに天使が現れた。畏れる牧人たちに、天使は「畏れることはない」と言い、「救い主キリストが お生まれになった」とつげた。と、突然、大勢の天使たちが賛歌を歌いながら現れた。

第15曲。合唱。天に栄光、地に平和。御心に叶う人であれ。「Highest」のテノール高音は天を象徴するので、ファルセットでごまかしたくはない。「on Earth」のバス低音は地を象徴する。

第16番。アリア(ソプラノ)。有名なアリア。シオンの娘よ。歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。その時、盲の目が開き、聾の耳が開く、歩けぬ者が踊り出し、唖の口から歌があふれる。

第17番。2重唱(ソプラノ、アルト)。主は羊飼いとして群れを養い、御腕を持って懐に抱かれ、導いて行かれる。主は言われる。重荷を負う者は私の元に来なさい。あなた方は安らぎを得るでしょう。

第18番。合唱。主のくびきは負いやすく、荷は軽い。「easy」の直訳は「負いやすい」だが、(衣服などが)体によく合った、という意味もある。転じて「魂に合った、傷をつけない」という意訳も成立する。「easy」の メリスマを味わって歌いたい。


第2部:受難・贖罪

クリスマスの喜ばしい雰囲気から一転して、受難曲のような重苦しい曲調で始まる。付点音符のリズムが十字架を引きずって歩くイエスの姿を思わせる。

第19番。合唱。見よ、世の罪を取り除く神の子羊を。これは洗礼者ヨハネがイエスを見た時に発した言葉である。子羊は当時、人間にかわって罪を許していただくために捧げられた犠牲であった。

第20番。アリア(アルト)。再び旧約聖書イザヤ書から。メシア受難の予言。400年後にほぼそのとおりのことがイエスの身に降りかかった。

第21番。合唱。まことに主は世の悲しみを身に負いて。「Transgression」は「宗教上の罪」「Iniquity」は「重大な過ち」。「Chastisement」は「懲罰」いずれも非常に重たい言葉である。

第22番。合唱。うたれし主の傷によりわれら癒さる。典型的な十字架音程。「Stripe」は鞭で打たれた縞模様の傷跡。この曲のコード進行はモーツアルトのレクイエムのキリエととてもよく似ている。

第23番。合唱。羊のごとく迷いてわれらおのおの己が道を行けり。主は我々の愚かな過ちをすべてイエスに負わせられた。夏目漱石の名作「三四郎」に出てくるキーワードは「Stray sheep」だが、人間の 愚かさのメタファーであるとはメサイアに出会うまで気がつかなかった。

第24番。レシタティヴォ・アコンパニャート(テノール)。怒れる群衆。十字架上のイエス。彼らはイエスを軽蔑しあざけり、頭を振りながら言い立てた。

第25番。合唱。神を信頼しているなら、神に助けてもらえ。HeとHimが文脈によって主(エホバ)を指す場合とイエスを指す場合がある。激しい表現の中でも注意して歌わねばならない。

第26番。レシタティヴォ・アコンパニャート(テノール)。嘲りに心砕かれ、同情は得られず、慰めてくれる人は見いだせません。

第27番。アリオーソ(テノール)。世にこれほどの痛みがあったろうか。

第28番。レシタティヴォ・アコンパニャート(テノール)。キリストは落命し贖罪が成就した。

第29番。アリア(テノール)。主は彼の御霊を冥府へ送らず、墓穴の聖体を見せず。復活の予感。

第30番。合唱。門の戸上がれや。栄光に輝く王が来られる。復活の成就。

第31番。合唱。天使たちはみな、彼(キリスト)を礼拝せよ。天使に対するキリストの優越。

第32番。アリア(アルト)。主の御業は天高く上り、人々を虜とする。敵でさえもそこに住まわす。

第33番。合唱。大勢の説教者の群れにより、福音が広まっていく。

第34番。アリア(ソプラノ)。平和の福音を伝える者の足はなんと美しいことか。

第35番。合唱。福音が全世界に広まっていく。テノールパートソロ。オクターブ下行、上行の繰り返しは音階の上から下までを全世界に見立てたもの。使徒たちによる伝道。

第36番。アリア(バス)。反キリスト者の出現と諸国民の反逆。何故に国々は騒ぎ立ち、人々は声を上げるのか。支配者は立ち上がり、結束して主に反逆する。

第37番。合唱。われらその枷を壊し、そのくびきを解き放たん。「Away」=解き放つ、のメリスマが印象的。メサイア合唱で最も難しい曲。

第38番。アリア(テノール)主はそれらを一笑に付し、鉄の杖で彼らを打ち、器を砕くように粉々にした。

第39番。合唱。ハレルヤ。賛美の歌声が鳴り響き、永遠の王であるメシアの勝利と支配を賛美する。
「ハレルヤ」は古代ヘブライ語であるが、アクセントの位置は定かではない。英語、ドイツ語系では第1音節で「ハーレルヤ」。ラテン語系なら後ろから2番目で「ハレルーヤ」になる。ヘンデルは曲中ですべての音節に アクセントが来るように作曲している。これはヘンデルがアクセントに無頓着だったからではなく、意識してこのようにしたに違いない。


第3部:復活・永生

メシアによる救いは成就した。第3部ではこの救いが人間界においてはどのように実現していくのかが解き明かされる。それは「復活と永遠の命」。希望に満ちた喜びのメッセージである。

第40番。アリア(ソプラノ)。私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには地上に降り立つであろう。たとえウジ虫が私の体を損ねても、私の肉体は神を仰ぎ見るだろう。

第41番。合唱。キリスト教の復活の奥義。死が一人の人によって来たのだから、復活も一人の人によってくるのです。アダムによってすべての人が死ぬようになったように、キリストによってすべての人が生かされるようになるのです。

第42番。レシタティヴォ・アコンパニャート(バス)。見よ。秘蹟を告げん。我々は皆、眠るのではなく、変えられるのだ。最後のラッパが鳴る時、一瞬のうちに。

第43番。アリア(バス)。最後のラッパが響く時、死者は起き上がり変えられる。朽ちる者が朽ちぬ者に。死すべき者が不死の者へと。そして、死は勝利に飲み込まれてしまった。トランペットとバスとの掛け合い。ソリストには 金管楽器に負けない豊かな歌声が求められる。

第44番。2重唱(アルトとテノール)。死よ。汝のとげはどこにある。墓場よ。汝の勝利はどこにある。死のとげは罪であり、罪の力は律法である。←この考えによれば人は律法を守らなければ神の御前に立つことが できない。しかし、キリストの教えは律法からの解放であった。
なお、42番から44番の原典はブラームスのドイツレクイエムの第6楽章と同一である。

第45番。合唱。しかし、私たちは(律法を守ることではなく)主、イエスキリストの贖罪を通じて勝利が与えられた。すなわち永遠の生命が与えられた。このことに感謝を捧げよう。

第46番。アリア(ソプラノ)。神が私たちの味方である限り、誰も私たちに敵対できない。誰も神に選ばれた者を訴えることはできない。人の罪を定めるのは神であり、復活されたイエス・キリストが神の右に 座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。

第47番。合唱。屠られた子羊は、血をもって私たちを贖ってくださった。その方は力、富、知恵、威力、名誉、栄光、賛美を受けるにふさわしい方です。玉座に座っておられる方と子羊に、賛美、名誉、栄光、権力が 世々限りなくありますように。アーメン。アーメンコーラスはヘンデルが書いた最も美しい音楽の1つ。ヘンデル自身が涙を流しながら作曲したと伝えられる。
「Redeem」とは「贖う」という意味。「あがなう」とは 「埋め合わせる」とか「買い戻す」などという意味で、キリスト教においては人間の罪をイエス様が血と肉体をもって引き受けてくださったことを意味する。罪とは原罪のことで、原罪とは欲望をもつことである。つまり、うまいものを 食いたいとか、いい女に話しかけたいとか、思ったりすると罪になってしまうのであり、その罪を許してもらう方法は律法遵守しかなかった。ゆえに、律法を守らなくてもすでに救われている、というイエスの教えは画期的で あった。が、イエスによって律法から解放された後も、禁欲思想は色濃く残り、ヨーロッパ中世封建時代を暗くつまらないものにした。禁欲思想のくびきから人々を真に解放したのはルターの宗教改革である。熱心な ルター派信者であったヘンデルによってメサイアが書かれたことは、人間の精神の解放という大事業に貢献したイエスとルターの邂逅(かいこう=巡り会うこと)である、と考えることができるかもしれない。