第31回音楽会 「メサイア」に寄せる想い Essays
2019年7月27日(土)の第31回音楽会では、東リ いたみホールでヘンデルの「メサイア」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員からの「メサイア」に向けた想いをご紹介いたします。
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エッセイ:「ヘンデルとメサイア」広田 修
エッセイ:「ヘンデル
ヘンデルとメサイア
ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルは1685年2月23日に現在のドイツ、ザクセン州ハレで生まれた。早くから領主に音楽の才能を認められ、音楽の道を進むことになった。 最初の先生はツァハウといいドイツやイタリアの作曲家の膨大な楽譜を所有していた。ヘンデルはその写譜を許され、これが終生作曲家ヘンデルの財産となった。1702年ハレ大学入学。この時期にテレマンと 知り合いオペラの魅力を教わる。1年で大学をやめ、当時ドイツで最のオペラの盛んな自由都市ハンブルグへと向かった。
ハンブルグで、4つ年上の作曲家マッテゾンに出会い、劇場様式の音楽を教わると同時にイギリス駐在員の息子の音楽教師の職を紹介され、これが将来の ロンドン永住の伏線となった。マッテゾンとヘンデルは友人であったが一度ささいなことからけんかとなり決闘に及んだ。ヘンデルは死にかけたが命を取り留め、すぐに仲直りし、以前よりも友情を深めた。当時の ハンブルグオペラは経営危機に陥っていた。ハンブルグオペラ界の中心人物カイザーは事態打開のため、バレエ付きオペラ「アルミーラ」の上演予告をしてその作曲に取りかかっていたが、借金返済の督促に 耐えかねて夜逃げしてしまった。その後、曲折を経て19歳のヘンデルがこの仕事を引き継ぐことになった。1705年1月8日アルミーラ初演、その後20回演奏されるという大成功を収めた。ハンブルグには 国際的有名人が多く集まっていた。「アルミーラ」の成功によりヘンデルはイタリアの名流メディチ家の皇太子フェルディナンドの目にとまり、イタリア来訪を強く勧められ、費用援助の申し出を受けた。 フェルディナンドがヘンデルに目をつけたのは、音楽よりも彼の語学力(イタリア語、ラテン語)、弁論術など外交官的な才能であった。しかし、この時期ヘンデルはパトロンの目をかいくぐりフェルディナンドの 愛人でソプラノ歌手のビクトリアと恋仲になっている。ベートーベンと同様、ヘンデルは生涯独身で過ごすが、その内容は全く異なっている。ベートーベンは醜男で女性の心をつかむことができなかったが、 ヘンデルは美男子でジェームズボンドやナポレオンソロのように多くの女性の心をつかんだ。ヘンデルには外交官よりもスパイ的才能があったのかも知れない。
1706年夏、イタリアに遊学。フェルディナンドをはじめとする数人の貴族の食客となり、スカルラッティやコレッリなどイタリアの作曲家と交流する。有名な スカルラッティとの鍵盤腕比べはこの時期の話である。イタリアではローマに長く滞在したが、当時のローマは教皇令によりオペラの上演が禁止されていた。そこで、貴族たちは自宅のサロンなどでカンタータや モテトなどの宗教曲を楽しんでおり、ヘンデルも宗教的合唱曲を多く作曲した。これが後のメサイアにつながるオラトリオ作品群の土台となった。ヘンデルは生涯にわたって声楽曲のボリュームが器楽曲を 圧倒しているが、この傾向はこの時期からすでに顕著である。1709年12月ベネツィアにおいてオペラ「アグリッピーナ」を発表。ベネツィアは2月初が謝肉祭の季節で各国の名士が集まっていた。「アグリッピーナ」は 大成功を収め、青年作曲家は一夜にして国際的名声を獲得した。有名人となったヘンデルは各国から招待を受けたが、1710年6月ハーノファー宮廷楽長に就職した。ハーノファーにおけるヘンデルの前任は ステファーニといい、宮廷楽長と外交官を兼務していた。ヘンデルはステファーニから宮廷の作法や、外交官のいろいろなノウハウを叩き込まれた。公的には、楽長就任後のヘンデルは英国におけるイタリアオペラ熱の 高いことを知り、ロンドン遊学を切望し、慈悲深い選帝侯とその夫人キャロラインからの推薦も有り、これを許され、ということになっている。スパイや忍者や必殺仕事人の話は闇の物語であり、表舞台に 出てはいけない。よって、公文書に「ヘンデルは選帝侯の密命を受けてロンドンへ旅立った」とは書けない。余談ながら、この時期ヘンデルはキャロラインと恋仲になっている。
1710年12月、楽長就任後半年で1年の長期休暇を許されたヘンデルはロンドンに向かった。当時の英国はアン女王の治世であった。ヘンデルは英国王室に すぐに受け入れられ、要人たちと親しくなった。その中に侍医のアーバスノット博士も含まれていた。博士は音楽好きですぐにヘンデルの大ファンになった。アン女王の健康状態はヘンデルを通じてハーノファーに 筒抜けになった。英国には王位継承法があり、アン女王の後継者はハーノファー選帝侯に決まっていた。ハンブルグ時代からイギリスに注目し、ハーノファーで諜報技術を身につけたヘンデルがこのことを 知らなかったというのは不自然であろう。
この頃のイギリスは大陸に先駆け名誉革命(1688年、イロはヤッパリ名誉革命)を成し遂げ、豊かな市民社会が実現していた。フランス革命はイギリスより 約100年遅く1789年(七難八苦のフランス革命)である。ロンドンでは市民のためのコンサートホールや劇場が活況で、楽譜出版も盛んであった。この時代の劇場は音楽を楽しむだけでなく、社交場であり、 議論をする政治の場でもあった。富裕層たちは音楽を解する、解しないにかかわらず、教養人であることの証明のためにオペラに足を運んだ。
1711年2月、ヘンデルは2ヶ月でオペラ「リナルド」を作曲し上演。大成功を収める。当時のイギリス聴衆にとって初めての本格的イタリアオペラであり、豊かで劇的で 濃密な音楽表現が成功の理由であった。1713年アン女王死去、ハーノファー選帝侯がジョージⅠ世となった。音楽の解説書によれば、ロンドンで遊んでいたヘンデルが不義理をした昔の主君が再びご主人様に なることに仰天し、ご機嫌を取り結ぶために「水上の音楽」を作曲し、テームズ川の川遊びでこれを演奏したところ、見事な音楽にジョージⅠ世の不興も解け、めでたく二人は仲直りをした、ということになっている。
この時期、ヘンデルはメアリーグランビルという良家の娘と付き合っている。メアリーは後に貴族に嫁ぐがヘンデルとの友情は変わらず、生涯ヘンデルを応援する良き サポーターとなった。ヘンデルはしばしば主君の嫁さんと恋仲になったが、メアリーとは打算なしの純愛であったかもしれない。オペラ作曲家はプレイボーイである、とは三枝成彰氏の持論であるが、確かに モーツアルトやプッチーニはプレイボーイであった。逆にオペラを書かなかったシューベルトやブラームスは純愛派であったが、女性にはもてなかった。ヘンデルを愛した女性たちはその後幸福な人生を送り、 ヘンデルの良き理解者になっている。
花形オペラ作家となったヘンデルはヘイマーケット劇場、後にロイヤルアカデミー王立劇場の音楽監督に就任し、作曲のみならず歌手集めやプロモーションなど 精力的に活躍した。1723年、ジョージⅠ世はヘンデルを「王室礼拝堂作曲家」に任命した。この地位は宮廷楽長より下であったが、王室の重要な儀式ではしばしばイギリス人の宮廷楽長を差し置いて ヘンデルが作曲を依頼された。オペラ作曲も最盛期を迎えヘンデルは名実ともに英国一番の音楽家となった。1727年2月、42歳の誕生日を控えてヘンデルは正式に英国に帰化した。
1737年。好調であったオペラも衰退期を迎えつつあった。当時のイギリス人歌手はレベルが低く歌手はイタリアから招聘したが、報酬は高額で常に劇場経営を 圧迫した。 ヘンデルは雇われの音楽監督に飽き足らず、自ら興行師となってオペラ経営を手がけたがうまくいかず、ヘンデル自身も過労により脳卒中で倒れ、劇場閉鎖に追い込まれた。原因の1つに ヘンデルの作品と聴衆の好みが乖離していったことがある。ヘンデル作品は後のヴェルディやワーグナーのように劇と音楽が一致した総合芸術を志向し、今日的な目で見れば芸術性が高くなっていくのだが、 聴衆の好みは内容よりも歌唱技巧で魅せるイタリアオペラに止まったままであった。
この年の11月、かつての恋人でヘンデルの良き理解者であったキャロライン王妃死去。失意のヘンデルに追い打ちをかけた。1737年はヘンデルにとって散々な年であった。
オペラに見切りをつけたヘンデルはオラトリオに活路を見いだした。1738年、53歳の時である。オラトリオとは「祈祷所」を意味し、オラツィオ「祈り」という言葉に由来する。 日本の隠れキリシタンに伝わる「おらしょ」はこれが転訛したものである。当時のオペラはレシタティボで劇が進行し、アリアで歌手の技巧を楽しむ形式で、作曲上の制約が多くあった。これに比べてオラトリオは 遙かに自由に作曲することができ、ヘンデルの創造性が豊かに花開いた。オペラの敗北はヘンデルを経済的にも追い詰めていたが、友人たちの支援によりヘンデルのための顕彰演奏会が開催され、何とか立ち直った。
メサイアは1741年8月22日に着手され9月14日に完成した。時にヘンデル56歳。台本作家のジェネンズは裕福な郷士で聖書やシェイクスピアに精通した著述家であった。 ヘンデルの良き理解者でもあった彼は入念で巧妙な台本を書いたが、メサイアのあまりにも早い完成にヘンデルが手を抜いたと疑ったこともあった。しかし、この作品は紛れもなく天才渾身の大作で、借用の多い ヘンデルにしては異例なほどオリジナルの楽想に満たされている。なお、メサイアと並ぶ傑作オラトリオ「エジプトのイスラエル人」はほとんどが借用である。1742年4月13日、ダブリンで慈善事業のための公開演奏として 初演。圧倒的好評を博し、翌1743年4月13日にはロンドンで演奏、ジョージ2世が行幸しハレルヤコーラスで起立されたのはこの時のことである。以降毎年慈善演奏会が催されヘンデル自身34回指揮、 1759年4月6日に最後の指揮を終えた。病床に伏し死期を悟ったヘンデルは4月11日に遺言書を口述。4月13日の聖金曜日に昇天を願ったが、実際は4月14日波乱に富んだ生涯を終えた。74歳であった。 浮き沈みの激しい音楽人生において、最後はウェストミンスター墓地に埋葬されるという至上の栄誉を得た。葬儀には3000人もの人が詰めかけ天才との別れを惜しんだ。メサイアの楽譜一式は、毎年慈善演奏会が できるようにと孤児養育院に寄贈された。
ヘンデル瞥見
― ロラン、ツヴァイク、そして三ヶ尻正 ―
<調子のよい鍛冶屋>、<見よ勇者は還る>、<諸人こぞりて>などヘンデルの有名なメロデイーには少年の頃から馴染んでいたが、大曲「メサイア」を初めて聴いたのは、 学窓を出た翌年の1960年暮れ、金沢兼六公園の傍にある北陸学院栄光館においてであった。東京への転勤が迫り、知友のステージ姿とともに“懐かしい土地の思い出”を胸に収めておこうとの意からで、 ハレルヤ・コーラスの場面で起立を促されたのを覚えている。
ヘンデルについては、当時ロマン・ロランの「ヘンデル」(高田博厚訳)(注1)とシュテファン・ツヴァイクの「ヘンデルの
復活」(片山敏彦訳)(注2)が読み物として知られていて、バッハと並んで近代音楽の礎を築いたヘンデルの史的位置づけや「メサイア」作曲の
経緯などを学んだ記憶が残っていた。当団の来年夏の演奏曲目が「メサイア」に決まったと知らされ、数十年ぶりに興が湧いて、一時期よく聴いたC・デーヴィス指揮、バイエルン放響の「メサイア」全曲盤に
久しぶりに耳を傾けながら読み返してみた。ロランもツヴァイクも20世紀前半を代表するヨーロッパ文学の巨匠であるが、近年は読まれることが少ないよう
なので、“温故知新”の
1.ロマン・ロラン
ロランは自身もピアノを弾き、パリ・ソルボンヌ大学で音楽史講座を担当する教授であった。「ヘンデル」はその講義をもとに書かれたもので、⑴生涯、⑵理論及び作品の2篇で 構成されている。⑴ではヘンデルの生涯を描出し、⑵では当時忘れられていたヘンデルのオペラ作品を再発掘し、独唱と合唱との融合や対立を通じて劇的、絵画的なオラトリオを樹立した功績を評価するとともに、 器楽曲作品の魅力を豊富な譜例で分析している。⑴に絞って年代を追ってエッセンスを要約すれば次のとおりである。
- 1685年、ザクセンのハッレで、理髪師・医者で軍人でもあった63歳の父と牧師の娘で30歳も年下の若い母との間に生まれる。巨躯を父から、信仰心を母から受け継ぎ、幼少時からオルガン演奏に際立った天性を示す。
- 1702年、亡父の希望でハッレ大学の法学部に入学するが1年で退学。翌年、作曲家を志してハンブルクに出て、ツァーヒョウ、テレマン、マッテゾンらの知遇を得る。1704年マッテゾンと仲違いして決闘となり、 間一髪で一命を取りとめる。
- 1706年から10年までイタリアに赴き、各地を巡りながら、コレッリ、スカルラッテイ父子、ステファー二らと交流し、イタリア音楽の本流に触れてオペラ作曲の腕を磨く。
- 1710年、ハノーヴァーの宮廷楽長に任命されるが、そのままロンドンに赴き、オペラ「リナルド」を初演して成功。翌12年以降はイギリスに定住し、夭逝した巨匠パーセルの音楽的気品を手本に「テ・デウム」を作曲し アン女王に献上。後継のジョージ1世(ハノーヴァー候)には「水上の音楽」を献呈して王室の公式作曲家となり、27年にはイギリスに帰化。王室の保護を受けるとともに、オペラ作曲家、指揮者として市民から支持をうけ、 劇場経営に力を入れるが、対抗する貴族劇場に招かれたイタリアのカストラート歌手ファリネッリの声望に観客を奪われて苦境に陥る。
- 1737年、中風症に倒れるが奇跡的に回復。翌38年には「サウル」「エジプトのイスラエル人」2作のオラトリオを作曲。1741年、オラトリオ「メサイア」を作曲し、翌42年にダブリンで初演されて大成功を収め、 ロンドンで再演。収益は孤児養育院へ寄付し以後慈善興行に励む。1747年「ユダス・マカベウス」により国民音楽家としての地位を確立。1749年、オーストリア継承戦争の終結祝典用に「王宮の花火の音楽」を作曲。
- 1750年(同年生まれのバッハが死去した年)、故郷ハッレに最後の旅行をした際、馬車の事故で瀕死の重傷を負う。幸い回復するが、次第に視力を喪失し、53年に失明。生涯独身を貫き、1759年、 老衰のため74歳で逝去。ウエストミンスター寺院に埋葬される。
2.ツヴァイク
ツヴァイクの「ヘンデルの復活」は、「人類の星の瞬間」(Sternstunden der menschheit)と題された12の歴史物語(注3)からなる
作品集の中の一篇である。突然脳溢血で倒れたヘンデルが奇跡的に恢復して行く場面(1737年)と最高傑作「メサイア」が誕生する場面(1741年)を中心に叙述と独白を絡ませながら心理解剖的に描いた
もので、
- 脳出血のあと続いた半身不随の状態から不死鳥のように蘇えり、猛烈な制作欲が漲ってきたヘンデルの手元に或る日詩人ジェネンズ(注4)から新作「メサイア」の詩が届いた。
- 冒頭の句<Comfort ye>を読んでいると天啓のように曲想が浮かび上がってきた。 ~ 言葉が神から与えられた。この言葉を掴み、飛躍させ、押し拡げ、歓喜雀踊を包摂し、永遠性の中へと 送り返すのだ!(予言と降誕)。 ~ <Hallelujah>地上から万物の創造者へと還りの歓呼!(受難と贖罪)。 ~ <Amen>かくあれかし!(復活と永遠の生命)。 ~
- 多く悩んだ者のみが、歓喜の何たるかを識る。試練を受け通した者のみが恩寵の究極の心を知る。死を体験した故に与えられた復活をいまや人々に立証することが課題だった。
- 憑かれたように昼夜を分かたずに3週間筆を握り続けて、出来上がるやヘンデルは一昼夜を跨いで眠り続け、召使は卒中の再発かと驚いて、医者を呼びに走った。
3.そして、三ヶ尻正
寡聞にして知らなかったヘンデルに関する最新の書物の存在を当団の増田雅弘さんに教えられ、過日三ヶ尻正著「ヘンデルが駆け抜けた時代」(春秋社)を読んでみた。 三ヶ尻の新著は、ヘンデルの生きた時代背景やヘンデルの音楽外的な才能(政治、外交、経営能力など)にも目を向け、旧来のヘンデル像の“脱構築”を目指した瞠目すべき書物であり、特に次の諸点に興味を惹かれた。
- ドイツに生まれ、イタリアで学び、イギリスに住んだヘンデルが
駆け抜けた 17世紀から18世紀前半のヨーロッパの時代状況と活躍舞台が活写されていること - ヘンデルが音楽家として教会や宮廷に属さず,外交的センスで複雑な政治情勢の中を生き抜いた「勝ち組」であり、先駆的な近代人であったとされていること。
- 脳溢血からの奇跡的な蘇りが「メサイア」誕生に結びついたとの旧来の伝説に、“Strtoke”という英語の病名の解釈に着目して(“卒中”でなく“痛風”)疑問を呈していること。
- 宗教曲「メサイア」に含まれる政治的メッセージ性を、台本作者ジェネンズと作曲者ヘンデルとの信仰や信条、党派面での相克と妥協という見地から分析していること。
著者の見解については歌の練習と並行してさらに読み込んで理解を深めて行きたい。
三ヶ尻の実証的で斬新な所論を、ほぼ1世紀昔に書かれたロランとツヴァイクの所説と比較考察する余力はないが、ロランの評伝は資料と考証に幾分陳腐化が感じられ、
ツヴァイクの作品は史書と小説との中間的な“創作”と受け止めるべきであろう。しかし両書は文学者が描いた
幾星霜を経て関西に定住後、阪神大震災からの復興がようやく進んだ1997年の暮れに宝塚ベガホールで故林達次先生指揮の“ベガメサイア”に出会い、初めて
畑儀文先生のテナーソロを聴いて、輝くような美声に驚いた。さらに20余年を
注2.シュテファン・ツヴァイク(Stefan Tweig 1881~1942) オーストリアの小説家。池田理代子の“ベルサイユの ばら”創作の引き金になったとされる伝記小説「マリー・アントワネット」や「メリー・スチュアート」「ジョセフ・フーシェ」など。1942年にナチスのユダヤ人迫害に抗議して自殺した。「ヘンデルの復活」(1937年作 片山敏彦訳 みすず書房)に ついては注3を参照のこと。
注3.「人類の星の時間」とは“時間を超えて、あるひとときの中に放つ星のような時間”を意味し、ツヴァイクは<ヘンデル:脳卒中から 帰還><ナポレオン:エルバ島から脱出><ゲーテ:老いらくの恋の断念><スコット:悲運の南極大陸征覇><トルストイ:雪中の家出行><レーニン:革命の封印列車>など12例の“歴史の決定的瞬間”を選んで興味深い 歴史小説集 に仕立て上げている。
注4.チャールズ・ジェネンズ(Charles Jennens 1700~1777) 旧スチュアート王朝の復活を願うジャコバイト系 カソリック詩人(貴族)で、ヘンデルの「メサイア」の台詞作成を担当した。ちなみにヘンデルはハノーヴァー候に仕えたこともある新王朝系のプロテスタントであった。